POSSIEDO - それでも女は火をつけた〜とある母の日のこと

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POSSIEDO - それでも女は火をつけた〜とある母の日のこと

 目の前の黒いキャンドルに、女は火をつけるか迷う。

 エレベーターを降り、鍵を出そうとした時、ドアの前に箱があった。高級な紙でつくられた、黒く小さい箱。気味が悪いと思いながら、女はなぜか拾い上げた。ゆっくり部屋に入り、箱を開ける。箱を開けた後で、なぜ自分は躊躇せず開けたのか、危険なものだったらどうするつもりだったのか、疑問に思う。中には、黒いキャンドルと、白い手紙が入っている。手紙には、しかし何も書かれていない。
 女は、キャンドルを見ながら考え始める。誰が、なぜこれを自分の部屋の前に置いたのか。女には、検討がつかない。誕生日でもなく、ずっと一人で生きてきた女には、記念日などない。強いて言えば、今日が母の日だということ。だが、女は独身で、子どもはいない。一度結婚してもいいと思ったことはあるが、その男とも随分と前に別れ、もうほとんど、覚えていない。
 女は椅子に座りながら、煙草に火をつける。大手の商社で役員にまでなったが、五十歳を前に辞めた。居辛くなった、とは思っていない。マンションも買い、充分な貯金もある。とにかく疲れた。今は静かに暮らしたい。

 女は、キャンドルに火をつけるか迷う。火をつけるということは、これを受け取った、ということになる。これを自分の生活に、受け入れたということになる。人生は、受け入れるか受け入れないかの、選択の過程であると女は思う。シャワーを浴び、ワインの栓を抜いた。ぼんやりキャンドルを見つめ、ライターの火を近づける。近づけるだけのつもりが、キャンドルには火がついている。胸がさわいだが、これでいいように思う。薄暗い部屋の中で、小さい火が揺れる。パチパチと、なぜか木材の燃える音がする。こういうものが、市販されているのだろう。奇麗な火だ。だが、この美しさは怪しい。火の揺らぎで、視界が惑う。

それでも女は火をつけた〜とある母の日のこと

 不意に、数年前の出来事を思い出す。何かの服を買いに、街まで行こうと歩いた時。公園で火を囲む、子ども達の姿があった。子どもは火で揺らぐ空気の中、手を上げ、声を上げた。女はあの時、夏なのに、と思う。夏なのに、なぜあの子ども達は火を囲んでいるのか。だが、記憶はそこで途切れる。意味がない。あれは何も私の人生の中で、重要なシーンではない。
 外の雨を確認するために、女はマンションのカーテンを開ける。だが、雨はいつの間にかやんでいる。今でも続くこの音は、キャンドルの音だと女は気づく。木材が燃える細かな音と、雨の粒が地面に当たる音は似ている。だが、これは不思議なことだと女は思う。火と水は、相容れないものだ。目の前に、タクシー乗り場が浮かぶ。いつだったか、雨の中、女は列の中にいた。まだ会社に入社し、間もないころ。すぐ前の男の背広の、僅かな皴が気になった。皴は広がり、微かに、震えるように広がり、女の前で揺れたように思った。女が瞬きすると、その皴はなくなっている。それだけだ。なんだろう。なぜあんな、意味のないことを思い出すのだろう。

 女はカーテンを開けたまま、息を吸う。テーブルに置いたままの雑誌を、本棚にきちんと戻す。遠くのテーブルで、キャンドルはまだ燃えている。あれはもう、私のものであるのだと女は思う。女はもう一度、誰がこのキャンドルを自分に贈ったのか、ぼんやりと考え始める。
 微かに、紙が破れる音が聞こえる。だがこれは、数日前から、時々感じていたことだ。近頃は、耳鳴りもよく聞こえてしまう。疲れていると思い、ベッドに入るか迷う。キャンドルの燃える音と、紙の音が重なっていく。燃えるとは、何かを損なうことであるのだと、女は気づく。もう何十年も忘れていた一つの記憶を、女はゆっくり思い出す。
 女が、まだ小さかった時。一人で部屋で寝ていた深夜、大人の女の影があった。それは母ではなく、現実がどうかも怪しい。眠りから覚めるか、覚めないかの狭間の中で、その大人の影は、女の前で紙を破った。紙は何度も裂かれ、何度も、何度も裂かれ、女は、それを悔しいと思う。なぜそんなことをするのか、どういう意味があるのか、女は惑いながら、その影を見ている。それからどうなったのか、女は思い出すことができない。その影がどこへ消えたのか、自分がそれからどうしたのか、女にはわからない。女は椅子に戻り、ワインに口をつけた。

 あの紙は、なんだったのだろう。あの破られた紙には、私の何が書かれていたのだろう。

 女はキャンドルに口を近づけ、そのまま、煙草に火をうつした。

中村文則

それでも女は火をつけた〜とある母の日のこと

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update : 2008.05.08
title : DayNa Decker


text : fuminori nakamura
photo : shinji kubo
thanks : fuminori nakamura
DayNa Decker Environments


それでも女は火をつけた〜とある母の日のこと

DayNa Decker Environments

モデルとして活躍した創業者デイナデッカーは、生まれ育った暖炉のある家を懐かしく思い、パチパチと暖炉で薪が燃える音を再現したいと、2001年より製品開発に着手。木製の芯『Eco Wood Wick (TM)』の開発ほか、計4年を費やして2005年にみずからの名前を冠したブランド『DayNa Decker』として商品化に成功する。Sax Fifth Avenueをはじめ、米国のあらゆる店舗で販売されており、新鋭のホームフレグランスブランドとして注目される。今回、小説のモティーフとなったのは『COUTURE COLLECTION』。



中村文則/小説家

愛知県東海市生まれ。福島大学行政社会学部、応用社会学科卒業後、作家になるまでフリーターを続ける。2002年、『銃』で第34回新潮新人賞を受賞してデビュー。芥川賞候補となる。2004年、『遮光』で第26回野間文芸新人賞を受賞。2005年、『土の中の子供』で第133回芥川賞を受賞。近著に『最後の命』

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